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「浜文子の育母書」(浜文子)にまなぶこと


育児の景色が見渡せる本

浜文子さんと、この本には息子が1歳ぐらいの時に家族みんなのかかりつけ医の待合室の本棚で出会いました。

この本のなかには、子育て中のお母さんたちを勇気づける言葉がたくさん書かれていて、全部のページを紹介したいぐらい、たくさんの勇気と元気をもらいました。

子育て中の方も、そうでない方も。母と子の暮らしにかかわるお仕事をされている方には、ぜひ1度手に取ってもらいたいなぁと思う本です。  浜文子さんにはお会いしたことはないのですが、なんだかすぐ傍らで、見守ってくれているような。

あたたかなまなざしを感じる言葉がそこここに。

たとえば、浜さんは、この本の中で自分の後輩のお母さんたちに伝えたいメッセージをこんな風に書いています。

「『お母さんになったからといって、何も昨日までのあなた以外の、どこかの誰かを演じる必要などないのですよ』という気持ちです。

(中略)

『お母さんは、自分を責める暇があったら、子どもを褒めなさい』ということ。そして、お母さん自身の人生への価値観を日常を通して、たくさん子どもに話しかけてくださいということ。お母さんが、何を人の誇りとして生き、また何を人の恥として生きているのか、ということを日々の暮らしを通して伝えていくことこそが育児であり、それがあなた自身を生きるといことなのです。

育児は難しいことではないのです。子どもを楽しめばいいのです。子どもの好奇心に刺激され、子どもの親を信じきっている目に頭(こうべ)をたれ、子どもの生命力に感動し、ひたすら子どもに驚いてそばにいればいいのです」(「浜文子 「浜文子の育母書」p14)

育母書

 

妊娠がわかったその時から急に「お母さん」とよばれるようになっても。まだまだ実感なんてわかなくて。

どんなふうに「おかあさん」になったらいいんだろう?いや、その前に、私はちゃんと「おかあさん」になれるのかな。そんな揺れる想いを抱えながらトツキトオカ、日々大きくなるおなかを抱えながら、みな、少しずつ、 おかあさんになっていく。

おなかのなかの小さないのちが、おかあさんを時間をかけて、育ててくれるんですよね。

でも、だからって、急に「りっぱな」おかあさんになんかなれないし、ならなくていい。

おっちょこちょいでも、泣き虫でも、怒りんぼうでも。

あかちゃんは、いまのあなたが好きだから。そういうことをそっと、伝えてすべての母にエールを送ってくれる浜さんのこの本が私は好きなのです。

 

 おや、おや?!のこころ

「共に喜び、共に泣く」とは、つまり感動詞、感嘆詞「おや、おや?!」の世界なのです。

親は子の心の、すぐ傍(そば)にいましょう。いつも…。そして、どんな時も共感の心を持ち続けましょう。親が「共に」してはいけないことは、子どもが自分に自信をなくし不安を抱え込んでいるときに、「ホントに、あなたはダメね」といった、なおさら「落ち込み」を助長する言葉を吐くこと。子どもが落ち込んだ時だけは、「ともに落ち込む」ことなく、「大丈夫」「大丈夫」と、おまじないのように言い続けるのです。「大丈夫だからね、絶対大丈夫だからね」と。

言葉にはエネルギーがあります。プラスの言葉を吐き続けると、辺りの空気が変わってきます。子どもが不安そうに、自信のない様子でいればいるほど「なんとかなるよ」「明けない夜はないよ」「今は胸突(むなつき)八丁。これから良くなる」と、叱責ではない、やんわりとしたエールを送ることだと思います。自信を喪失した子には「おや、おや、いったいどうしたというの。元気を出してね?」の「おや」を。

親とは育てるもの。育つ、の語源は「巣立つ」とも「添い立つ」ともいいます。

この傍(そば)により添い立って「おや、よかった。おや、ビックリ!」と心を通わせましょう。そのような人が傍らにいて、人は人になるのですから。(浜文子「浜文子の 育母書」p52)

育つ、の語源が「巣立つ」「添い立つ」だということは、私はこの本で初めて知りました。

なんだか納得。添い立つ人がいて、初めて人は安心して自分を出したり、ちょっと冒険に出ていく勇気を得たりするものだと思うのです。

だから、人の育ちの傍らには、いつも人がいて。お互いにエネルギーを送り合いながら育っていくのだと思います。「ああ、なんだかわかってもらえているなぁ」という安心感は、冬の夜に心地よく体を包んでくれるあたたかな毛布のようにじんわりと心を温める。その温かさがまた勇気になって、人は前に進んでいけるんじゃないかな、なんて思ったりもして。

この関係って、親子だけに限らないんじゃないかなって思うのです。こんな気持ちで、人生の節目節目で添い立つ人がいてくれると、人生はとてもゆたかで温かなものになりますよね。

そんな風に関係を紡いでいくことのできる自分で在りたい、と。そう、思います。

 

子どもの時代

「子どもはいつも無心です。自分の内と外との一体感に包まれ、ひたすら今を、たった今の、その一瞬一瞬を生きています。

自分の来し方、行く末を案じたり、自他の一線を画した区別に思いを馳せることもありません。

「平和」とはそのような境地を言い、そのような世界に棲むことを言います。

人が、子どもの無心を手放していくのは、内と外の一体感を失い、自と他の間に深い乖離(かいり)を感じ始めた時。そして、自らの内にすら、不可解な、何か得体のしれないものが秘められているという発見に行きつくとき。人は、未知なる自分と出会っていくにつれ、他者のなかの未知なる闇にも深く気づかされていき、それだからこそ他者と向き合う時の愛も憎しみも、それぞれの持つ孤独の量に正比例していうのだという事実。その事実を実感する道が、大人になるまでの道のりとでもいえば良いでしょうか」。(浜文子「浜文子の育母書」p61)

 

本当に、子どもたちはなんて素直にまっすぐに世界を見つめてむきあって毎日を過ごしているんだろう、と

驚かされます。

道端の水たまりに喜びの声を上げ、小さな石ころを大事そうに掌に包み。嬉しそうに、自分の影を追いかけて。

心配性の私は、これまでいつも「こうなったらどうしよう」と、まだ起きてもいないことを心配したり、過去の選択を悔いたりすることがありました。でも、子どもと暮らす毎日はそんなことを考えている暇もなく過ぎていき。気がつけば子どものおかげで、私は今、いつも「いまここ」に生きていられるようになった気がします。

迷いも不安もなくなったわけではないけれど。

そんなことをふき飛ばしてしまうぐらいに圧倒的に「いまここ」を生きる存在がすぐそばにいてくれることは、こんなにも力強くて楽しくてワクワクしちゃうことなんだなぁ、としみじみ思います。

こどもたちは「いまここ」を生きることで、信じられないぐらい大人たちを元気にしてくれている。神様からの贈り物みたいです。

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「子どもが凝視する世界の『不思議』は、そのままぞくぞくするほど驚きをもって私に伝わり、伝わることで

私は自分がはるかな昔に手にしていた遊びの世界を思い出し、じぶんと、その世界から遠のいてしまつたことに気づかされ、そのうえで、なお、昔々のあの『不思議』の延長上に日常の妻や母を生きている自分をしっかりと確かめることができたのでした。

『子ども』という時代、あの感性の裾野が広大な時代、ものにも容易に心を通わせられる、あの二度と戻らない時代に、私たち大人はもっともっと多くの刺激をもらい、触発されなくてはなりません。

(中略)

生命(いのち)の始まりと終わりは、一つの輪の始まりと終わりのように、とても近いところにあります。育児と介護は、共に理論よりも共感の世界です。それは、とりもなおさず、人と人が向き合う時の究極の心理だというわけです。育児に費やす時間はいろいろな意味で、人の生涯にわたる財産なのです」。

(浜文子「浜文子の育母書」p74)

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やっぱり、いのちのそばにいるということは、とてもとても学ぶことが多くて。

大変で、面白くて、パワーが必要で、終わりがなくて、混とんとしていて。だからこそ、やっぱり、大きなエネルギーをもらうもの、だと思うのです。

私の祖父母や曾祖父母やその兄弟は比較的長寿だったので、物心つくまでたくさんのお年寄りに囲まれて育ちました。だから、一人、また一人と空に還っていく傍らにも寄せてもらうことができて。特に自宅で看取った祖母や父のその生き様や旅立ちからは、「いのち」についてのたくさんのことを学ばせてもらいました。本当に、ありがたかったな、と思うのです。だから私は「いのち」にとても興味があって。何のかんのいいながら、人が好きで、人のことを信じられるのだと思います。

いのちは、いのちに育てられる。

だから、子育てだけじゃなくて。なにか植物でもいい、動物でもいい。

自分以外のいのちの世話をすることは、人を大きく育てる。そんな気がします。

いまの社会の中で「育児」というのは必ずしも価値あることとはされない場面もあるけれど。

私は、浜さんの言うように「育児に費やす時間はいろいろな意味で、人の生涯にわたる財産」という考え方に深く共感するのです。そんな風に育児をとらえて、子どもたちの育ちを見守っていけたら。おとなもこどもも、もっとのびやかに生きていくことが出来るように思うのです。

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いのちはいのちに育てられる

「時には落ち込み、グズグズと愚痴もまきちらし、正直に泣いたり、怒ったり、沈んだり、うろたえたりを見せあえる親子、見せあうことを許し合い、認めあえるのが『よい親子』の『正しい関係』だと、私は思っています。

親であるということは、自分の喜怒哀楽と子どもの喜怒哀楽を重ねあわせ分かちあい、共有し合うことです。もちろん百パーセントの心の共有など、とうてい無理ですが、少なくとも共有し合っていたいと願うこと、共有し合おうという姿勢を子どもが幼い時から日常の中にちりばめることにほかならないと思います。

『世間の幸福感』『世の中の価値観』『一般の成功論』などを、わが子の上におおいかぶせない親のいる家には必ず、その家だけの充足したのびやかな喜び方があります。  成績、学歴、お金、名誉、名声といったものとは必ずしも一致しない、本当の意味の『人間の生きてる値打ち』といったものを、子どもに語れる親であるなら、子どもは自分がどんな状況の時にも、人間としての自信と誇りを持てるはずです。病気をしても、成績がふるわなくなっても、受験に失敗することがあっても、たとえ将来、何か大きな挫折を味わっても、子どもはやがて顔をあげて自分の足で次の一歩を踏み出すことが出来るはずです。

大切なのは、挫折しても立ち直る子に育てること。その心の力を授けられる親であること。

子どもが人生に行き惑ったとき、『悩んだっていいんだよ。落ち込んだっていいんだよ。うじうじしたっていいんだよ。人間らしいっていうことは、本当は、そんな気持ちをきちんと体験してきたっていうことなんだからね』と、そういえる親子関係でありたいものです。

お母さん自身も育児に行きづまったり、悩んだりした時に自分を責めず、自分を母親失格などと思わず『イロイロあるのネ、育児って…』と、生きる日々の諸相(しょそう)を味わい眺める気持ちを持つことだと思います。

「よいお母さん」とは、つまり、自分の弱さも情けなさも、きちんとわかっているお母さん。だからこそ、子のいたらなさにも失敗にも、寛大になれるお母さんであるということです」(浜文子「浜文子の育母書」p34)

 

 

そうそう。

本当に、そう思います。

人生でこぼこだらけ。転ぶことだってあるし、道に迷うことだってあるし、立ち止まってしまうことだって。

みんなそうやって生きてきて、いまがある。

でも、道草をしたり立ち止ったりするから見えるものがあったりもする、そのことに気づける人になるといいな。立ち止まったら、ちょっと空を見上げてみたり。頬を撫でる風を感じてみたりして、いまの自分を感じて。

また、歩き出せるようなそんな人になってくれたら、嬉しいな、と思っています。

そんな想いを胸に秘めつつ、でも、まだまだ私は「おかあさん」として新米で。うろうろする息子を叱ってしまったり。せかしてしまったり、あーあ、理想は遠い、とほほ、な毎日。

でも、ひとつだけ続けているのは毎晩寝る前に一緒に布団の中で添い寝しながら「生まれてきてくれてありがとう。怒っちゃったり、いらいらしちゃうときもあるけど、ママはね、○○(息子の名前)が、大好きだよ」と伝えること。「だいすき~」と、にこにこしながら繰り返す息子に、何が伝わっているのかはわからないけれど。

何ができてもできなくても。ただ、生まれてきてくれたことに感謝していて。

いてくれることが嬉しくて、ただただ大好きなんだということが伝わって。それがいつか、前に進む力が出ないときでもふと、暗闇を照らす小さな灯りになるといいなぁと思います。

 

息子はいま、2歳3か月。振り返ればいろいろあるけれど、ぴゅーっと吹きすぎる風のように、この2年間はあっという間に過ぎてしまいました。

きっと、あっという間にどんどん大きくなってしまうんだろうなぁ。そう考えると、毎日毎日がとても貴重で愛おしくなって。ダメな自分も、落ち込んで泣きたくなる夜も、ぜんぶまるごと「まあいいや」と許せてしまうような気もします。だって、毎日、朝目が覚めて。一日が始まって。本当はそれだけでも十分にスペシャルなことのはずだから。

子どもからの贈り物は、まず「おかあさん」にしてもらったこと。そして、いつも「いま、ここ」にいればいいんだよ、と教えてもらったこと。「共に育つ」なんておこがましくて、私が母として育つよりもずっと速いスピードで息子は毎日育っているけれど。そんな彼の傍らに私は私らしくそのままに。添い立つことは、何とかできる気がしています。

それしかできないけど、きっと、それでいいんですね。

大地を踏みしめ、前を向いて。おおきくなぁれ、と念じながら今日も一緒に歩いて行こう。


水野 佳

ヨガとくらしのサロン LINGKARANG(リンカラン)主催 水野 佳 自然や季節を感じる暮らしを提案。親子で自然にふれる「森の親子ピクニック」や、味噌や醤油の仕込みWS、お寺でのヨガクラスなどをのんびり開催中。わんぱく2歳児の母。