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「美しいもの」(赤木明澄)


美しいものを日常に

赤木明登さんと「美しいもの」
塗師の赤木明登さんは東京での編集者生活から一転して、能登を代表する文化であり、国の重要無形文化財でもある輪島塗の世界にゼロから飛びこんだ人です。そんな赤木さんが作るのは「日常生活で使える」ことにこだわった漆器です。芸術性が高くても使いにくいもの、ではなくて。利便性が高く「使える道具」であり、かつ「美しい」ものを生み出す彼のファンは全国にいます。

「この10年間、僕は変わることなく、漆塗りの器を、毎日の暮らしの中で使ってもらうために作り続けてきました。そして、作れば作るほど、作ることの意味が、美しいものを作ろうと思えば思うほど、美しいということの意味が分からなくなってしまうのです」。                 (赤木明登「うつくしいもの」P3)

今回ご紹介する「美しいもの」は、そんな赤木さんが「美しいものってなんだろう」、「僕たちはどうして作り続けるんだろう」という問いを立てながら友人たちと過ごして紡がれた時間と物語がつまった珠玉の1冊です。

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思う力
まえがきに書かれた「思う力」という文章がみずみずしくて、まっすぐで。美しいな、と思うので。
まず、そこから始めていきたいと思います。

「思う力」
「海岸に流れ着いた流木や河原の石っころ。そんなものにどうしても見惚れてしまって、一度手に取ると手離しがたくなる。僕ものこの石っころのように静かで美しいものを作りたいと想う。だけど、悲しいことにぼっくの作りだしたものはどこまでも人工のものでしかない。流れる雲、葉っぱ、雷、降りしきる雪、一匹の虫、立ち枯れた木、砂の一粒から満天の星まで、なぜ自然のものはこんなにも美しいのだろう。そこには命があるから。命があるということは、バラバラではないということ。バラバラではないということはすべてが繋がっているということ。今日咲いた花、土の中のみみず、宇宙にある太陽その一つ一つ、そして生と死という時間、すべてが連続している。この世で唯一繋がっていないものは、人間がこの百年ぐらいで作り出したもの。だから人間はすごいかもしれない。しかしそのバラバラさはエスカレートするばかり。だから醜い。いまだに手で物を作っている人たちでさえ、他と違った何か新しという変てこりんで醜いものを作り出そうと馬鹿な努力をしている。もう人間は、自然の懐に抱かれては生きていけないように、自然にあるものと同じものを人間が作り出すことはできない。
だが、人間に唯一与えられた能力がある。思う力だ。そして思いは必ず実現する。
私たちは、長い間自然に美しさを感じ、それを自分が作るものの中に写しとろうとしてきた。まだ人間が宇宙や自然としっかりとつながっていた時代には、人間が作った道具もちゃんと繋がっていた。そんな道具は、今でも美しい。僕は、もうバラバラになってしまって宇宙とも繋がっていないけれども、まだ何が美しいかぐらいははっきりわかる。それを思う力もちゃんとある。僕は今、心から美しいものを作りたいと思う。人が見ている物、人が毎日使っている物は、人を幸せにできると信じている。バラバラになった僕が美しいものと出会い、癒されたように」。
(赤木 明登「美しいもの」まえがき)

本当に、美しいものには力がある、と私も思います。だから人は、ふと美しい風景に出会ったときに励まされたり勇気づけられたりもする。自然には、そんな不思議な力があって、その秘密は、「そこにいのちがあって、バラバラではないから」と、赤木さんは言うのです。
北海道の広大なラベンダー畑で、ふと見渡すと周りにはたまたま人影がなく聞こえるのは蜜を吸いに集まったミツバチの羽音がするばかり、という風景に出会ったことがあります。私を囲むのは、宇宙の色のような深い碧色の空と、ラベンダーと、ミツバチの羽音と、吹き抜ける風だけ。何とも贅沢で、自由で、のびやかな、そんな時間でした。それは、ミツバチとラベンダーのいのちの環の中に「わたし」もそっと参加をさせてもらえるような時間だったから。いのちの繋がりの中にあるとき、私たちのいのちも、とても安らぐように思うのです。

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日常生活に美しさを
だからこそ、わたしたちは毎日の生活のなかにも「美しさ」を必要としていて。
先人たちが作り出してきた道具や衣服が美しかったのは、そういう、美しくてよく働くものたちが力を持っている、ということをよく知っていたからだと思うのです。

文中に登場する赤木さんの友人の一人、小野哲平さんは「器をつくる人」。奥さんの早川ゆみさんは「服をつくる人」。彼らの日常は「暮らしが仕事、仕事が暮らし」。

哲平さんが輪島で個展を開いた時のDMのことばは、こんなふうだったそう。

「さわれたり みれたり するものじゃなくて かんじているもの それはなにかといえば
ぼくだったり あなただったり することだけれど それが いちばんだいじ

めしをつくる せんたくしたり そうじしたり こどもといっしょにいる
そういうこととおなじように ものをつくる」            (赤木明登「美しいもの」p15)

ああ、なんだかぜんぶ心地よく繋がっているなぁ、とうれしくなってしまう、この感じ。もともとは、仕事とか暮らしとか住まうとか、そういうものは途切れずに繋がっている営みで。暮らしが仕事で、仕事が暮らしで。
その仕事はシンプルに「誰かに届けるため」にあったのだと思うのです。それは、誰かと喜びを分かち合うこと、と同義だったといってもいいかもしれない。
それがどこかで、効率や利害や発展という名のよくわからないものに浸食をされて、ぶつぶつと分断されるようになってしまったのがいまの私たちの暮らし、なのではないでしょうか。
例えば、安くて早くて。でもどこのだれが作ったのか全く分からないようなファーストフードやコンビニ食。プラスチック容器に入ったそれを、そのまま食卓に並べて食べるようなその在り方は、「美しさ」とは対極にあるようなものだと思います。そういう「便利さ」を追及していった結果、削られていったのは、実は日常の美しさと、私たちの「いのち」のようにも思うのです。
作り手の顔が見える道具を使い、作り手の顔の見える食材を使った料理を食べていた時代。私たちはそれらをとても大切に扱い、物や食事を通して、その背後にいる人や動物や植物たちと関係性や絆を結んでいたのではないでしょうか。だからこそ、その物を生み出し届けてくれた人たちに恥じないように、それらを丁寧に大切に扱う。そして、生活に寄り添う美しい道具たちが生まれていった。
赤木さんが「日常使い」にこだわり、そこに「うつくしいものを」と思う心には、きっと美しいものが、人のとても大事な部分を支えている、ということを知っているから、だと思うのです。

ネイティブ・アメリカンの人々が何かを決める時には7世代先のことを考えて決定する、というけれど、「時間」というのは、とても重要なものだと思います。時の淘汰を経てもなお使われてきたものには、やっぱり力がある。
本当は、日常の道具というのは皆、そうやって時間を経て伝えられて、大切に使われ続けていくもの、なのだと思います。決して華美ではないけれど、端正で丈夫でよくはたらく、美しきものたち。
そういうものたちに囲まれて生活していると、自分自身の佇まいも育てられていくような、そんな気がします。
美しいものを作る人、その美しいものを丁寧に使う人たちの後ろにはきっと、美しいたたずまいの毎日の暮らしがある。

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高級なブランドもののカバンやアクセサリーには全然興味がないけれど、素敵な漆椀や、まげわっぱのおひつ、美味しくご飯の炊ける土鍋など、ともに暮らす日常使いのものたちにはついつい手が伸びてしまう。
そういう性分です。
丁寧に作られたものたちは、とても佇まいが美しくて。
飽きることなく、ただただ眺めてしまうことも。
手にしたときに、量産されたものにはない、職人さんの手のぬくもりや思いまで伝わってくるような道具に囲まれた暮らしは、なんだかいつも護られてあるような、そんな気がします。
長い時間をともにするものこそ、美しいものを。
何でもいいと思うのです。今日から一つ、毎日の生活の中に、そんな「美しいもの」を加えてみませんか。


水野 佳

ヨガとくらしのサロン LINGKARANG(リンカラン)主催 水野 佳 自然や季節を感じる暮らしを提案。親子で自然にふれる「森の親子ピクニック」や、味噌や醤油の仕込みWS、お寺でのヨガクラスなどをのんびり開催中。わんぱく2歳児の母。